映画「聲の形」を原作と比較して観てみて率直に思った感想。

f:id:SHOSASA3:20160922154104j:plain

聲の形の劇場版を見てきた。京都アニメーションが制作とのことでアニメ好きとしては「君の名は。」以上に前々からチェックしていた作品なのだが、見終わった後の率直な感想としては素直にうん良かったな、とは思えなかった。

koenokatachi-movie.com

というのも自分はこの原作がとても気に入っており、映画館に行く前に予め原作を全部読んでから観に行ったのだが、そのためかどうしても原作と比較しながら観てしまったことで劇場版では削られたシーンが個人的にはすごく気になってしまったからだ。

全7巻の原作を約2時間の映画にまとめるってだけでも難しい話なのだが、それでもなくなったシーンがあったとはいえ、劇場版では登場人物たちに動きや声の細かな演技が吹き込まれ、さらに美麗な背景や音楽が加わってくると、やはり原作では味わえなかった場の空気感・臨場感が伝わってきて感情移入もできたし、妥協しないところは妥協しない演出で観ている人に何かを感じさせる映画だったと思う。

だがしかし、偏った意見であるのは重々わかってはいるのだが、それでも原作を知っていると一人一人の登場人物たちの悩みや葛藤、人と関わることの難しさや苦しさ、心の機微などが劇場版では弱いような気がした。原作の方が見ているとすごく心が痛くなるし、揺さぶられるし、色んな意味で自分をかき乱してくれる作品だった。

今回自分が劇場版でこのように思った理由として挙げられる原作との内容の違いについてネタバレ込みで自分なりに思った事を書いておこうと思う。

 

 

 

 

映画製作がない

これは原作との一番大きな変更点だと思うが、個人的には映画製作はあった方が良かったと思う。これは石田が硝子だけでなく他の人とも繋がれる接点だと思うし、映画製作を行う過程で色々なぶつかり合いがあり、他人と関わることの難しさがより一層伝わってくる。それに始めは一緒にはいるが少し気持ちがバラバラだった石田と周りの人たちとの関係が、映画製作という目標をともに成し遂げていく様子を描くことで、辛く苦しいことがあっても人と関わることで生まれた可能性みたいなものを「映画」という明確な形・思い出みたいなものとして見せてくれていたのが良かった。

 

石田が結弦と一緒に硝子を探すシーン

原作では家出した結弦を探しに出た硝子を石田と結弦が一緒に探すシーンがあったのだが、劇場版では雨の中硝子が結弦を探すシーンがなくなっていた。これがないと硝子の妹である結弦と小学校時代硝子をいじめていた石田との印象最悪の出会いから、お互いに信頼しあえる関係になっていった様子がイマイチ伝わってこないと思う。石田が本気で硝子と向き合いたいと思いをぶつけることによって、硝子と一番近い距離にいる結弦が小学校でのいじめで硝子を「死にたい」と思わせた石田を許すとまではいかないものの向き合うきっかけを作った大事なシーンだと自分は思う。

 

硝子が植野へ手紙を送るシーン

観覧車での出来事があって硝子は植野へ自分の思いを書き連ねた手紙を原作では送るのだが劇場版ではなくなっていた。観覧車での二人の会話でも言ってたように硝子は「私は私が嫌いです。」と耳が聞こえないことで周りに迷惑をかけている自分をずっと責め続けている。自殺しようとした硝子を植野が怒鳴りつけている時に硝子の手紙を原作では読み上げるのだが、やはり手紙にも自分のせいで周りの人たちの色々なことを壊してしまった罪悪感に苛まれていることが書かれていた。この手紙には硝子が自殺へと考えを至らせた心の葛藤や苦しみが読み取れるし、ずっと殻に閉じ込めていた硝子の本音がここには詰まっているように感じたので、この手紙は自殺をしようとするまで追いつめられていた硝子をより深く知る上でとても重要な要素だと思う。

 

硝子の母親が離婚に至った経緯

原作では硝子の聴覚の障害が原因で離婚に至った経緯が描かれているのだが、劇場版ではなくなっていた。これがないとなぜ母親は硝子を普通学級で勉強させたり、厳しく接したりしていたのか、それに植野に対して黙って手をあげて感情的になった母親の気持ちが少し伝わってこないような気がした。この離婚の経緯があったからこそ、硝子の母親はこの状況に負けないように自分に厳しく生きるようになり、その生き方を硝子にも当てはめるようになってしまったことが伝わってくる。けれどもそこには硝子にどんな状況でも負けないよう強く生きて欲しいという母親なりの愛情があったと自分は思うので、劇場版では少々ヒステリックな母親に見えてしまったのもこのシーンがあれば見方が変わったような気がした。

 

 

ここまで色々と原作と劇場版の違いを書いてきたが、ここまで書いてきて思ったことは、原作は「石田と硝子とその周りの人々」の関わりあっていく姿を俯瞰的に色々な角度・目線で見ている人に突き付ける作品だと思うが、劇場版は「石田と硝子」という似た者同士の二人との関わりあいを石田目線で強く描いている作品だと個人的にはすごく思った。特にそう感じた部分は小学校時代のいじめのシーン。ここも原作とは少し雰囲気が違っており、劇場版では音楽や演出面と相まって硝子に対してのいじめが石田の視点からの無邪気な行動で行われていることをすごく強調していたと思う。原作では石田の周りの友達や担任の先生との関わりを描いていたのに比べて、劇場版では小学校時代から重点的に石田と硝子の二人の関わり合いにスポットを当てていたためか、それからの展開も石田と硝子の二人の関係を中心に話が進んでいるように思えた。

高校時代の石田の周りの人たちもそこまで詳しく描いてこなかったのも「石田と硝子」の二人にこだわっていたのが理由のように感じた。

あれだけの内容の濃い原作を完璧に2時間の映画にするのは不可能だと思うので、「石田と硝子とその周りの人々」ではなく「石田と硝子」に焦点を当てた映画として見たらいろいろと納得がいく部分が出てきた。

劇場版は「石田と硝子」に焦点を当てたがために、その周りの人々の内面が良く分からず、川井は体裁だけ気にしているいい子ぶってる嫌な奴だと思うかもしれないし、真柴なんて大衆の面々のうちの一人としか見ている人は思わないかもしれない。

ただある意味ではそういう風に感じるのも劇場版ならではの面白さだと思う。登場人物の気持ちを事細かに見ている人に伝えるのではなく、考えさせる余白を作ることで自分だったらどうするのか?自分はこの人をどう思うのか?という正直な気持ちを引き出せるのではないかと思った。

石田と硝子、周りの友達たちのその時々に感じた気持ちや悩み、葛藤など心の内面をもっと知りたいのであれば原作を読めばいいと思うし、劇場版だけでも見た人が色々と考えさせられるきっかけにはなっていると思った。劇場版しか見てない人が原作を読んで劇場版の時に感じた登場人物に対しての気持ちが変化したり、見方が違ったりして新たな理解が生まれるのもこの「聲の形」という作品の味わい方の一つだと思う。

始めにこの映画を素直に良かったとは思えなかったとは書いたけど、確かに原作を読んだ人にとってはたくさんの人々の多様な考えや思いがぶつかり合って、その人々との関わりあいの中で考え悩むことで生じるコミュニケーションの難しさが描ききれてないように感じるかもしれないが、このような素晴らしい原作の導入映画として観たら約2時間という時間で見せるところはしっかりと見せていて上手にまとめていると思った。

個人的には是非とも劇場版だけにとどまらず、原作も読んでコミュニケーションとは?相手の声を聞くこととは?と今まで出会ってきた人々、これから出会う人々との関わりを少しでも前向きに考えれるようになる後押しになればいいなと思った。